2019.夏「復興創生インターン」作品

2019年夏季 復興創生インターンシップ 学生作品

大野がよく分かるマンガ

八戸学院大学地域経営学部2年 高橋侑己

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大野と蔵 (八戸学院大学ビジネス学部 3年 小島奈那)


「プロローグ」

この物語は20193月某日洋野町で行われた復興創生インターンから始まる。場所は洋野町大野。ここに一人の女子大生がインターンに訪れた。彼女の名前は「みく」。中部地方のとある大学から来たピカピカの1年生だ。少しの期待と大きな不安を胸に抱きながら約1か月のインターンに挑んだ。そして、彼女はインターンが終わった後、インターン先の女性にこう言った。「洋野町はとてもいいところなのにこの町のことがすぐにわかるものがなくて勿体ない!」と。

 時は流れ同年6月上旬。一人の冴えない女子大学生がいた。彼女の名前は「はな」。彼女は地元八戸の大学に通う3年生である。そして、卒業後の進路を本格的に考えていた。しかし、ただただ周りに流されるままこの3年間生活してきた。そんな彼女に一つの転機が訪れる。彼女は自分に合った仕事を見つけるために何となくインターンの講義を受けた。それは後に彼女にとって大きな影響を与えることになる。

 6月中旬。その日、彼女がいつも通りインターンの講義を受けていると、ある資料からどうしても目が離せなくなっていた。それは、夏休み期間の1ヶ月を使い、「本気」の挑戦をするというものだ。その資料に載っているインターンは全部で3種類あり、彼女はその資料の一番下にあるプロジェクトにとても惹かれたのである。そのプロジェクトというものがこの物語そのものである。

 彼女はどうしてもこのプロジェクトのことが気になり、このプロジェクトのコーディネーターの外和さんとの面談を試み、彼女が将来的にデザイン系(絵を描く系)の仕事に就きたいということ、彼女自身絵を描いたり、物語を作ったりすることが好きだということ、これらすべてがこのインターンの内容と合致しており、ぜひ参加したいという意思を伝えた。今思えば、彼女の変化はここから始まったのである。そして、彼女の本気を感じ取った外和さんの粋な計らいと、彼女が行きたいと言っていた洋野町大野にあるフェアリーチェの方々の優しい広い心により、彼女はこの復興創生インターンに参加することになる。

8月中旬、インターンが始まった。今回彼女が参加するインターンというのは、「洋野町大野にある創業241年目の蔵の歴史を伝える物語を作る」というものだ。彼女が何故このインターンに参加したかというと、彼女は自分の将来行いたいという仕事が商品開発や、物事の企画を考える仕事であるということ、元々物語を自分で考えて書くことが好きだということ、歴史が好きだということ。この3つを合わせた際に彼女なりの大きなステップになると思った内容だったので、参加したのである。


1日目:蔵」

 朝9時半に洋野町大野に着いた。彼女が来た八戸よりも少し暑くずっと外にいると熱中症になってしまうかもしれないとはなは思った。そこは、まるでテレビで見る昭和時代の風景そのものであり、大野の中心街には「西大野商店」というとても大きいお店があった。この店は彼女が参加するインターンの受け入れ先であるフェアリーチェの代表であるかおりさんの実家であり、この物語に出てくる蔵の持ち主が代々受け継いでいるものである。

インターンが始まってすぐ、彼女は大野についてとてもショックを受けた。それは、このインターンで一番スポットが当たるはずの蔵の状態である。蔵の状態はとてもひどく、補修工事が必要な状態である。しかし、そのショックと同時にその蔵の大きさに感動したのである。それもそのはず、彼女の地元の八戸よりも小さい地域にも関わらず、とても立派な蔵であるからだ。しかも5つもある。

 彼女が見せてもらった蔵は2つであった。一つ目は何も置いてない蔵だ。入った瞬間に思ったこと。それは「異世界」だ。蔵の中心にある柱の一番上に小さい神棚のようなものがあった。その中には人の顔の絵が描いてある布があり、その中に何かが入っているような感じであった。彼女はふと疑問に思い、フェアリーチェのかおりさんに聞いた。

はな「あの上の神棚にあるのはなんですか?」

かおりさん「なんだろう?私も分からないな。もしかしたらこの蔵の守り神かな?」

はなは「この蔵には付喪神がいる」と。この蔵ができてからずっと守ってきたのか、その間にあった大きな出来事からこの蔵を守るための守り神として置かれたものなのか…。その真相は未だわかっていないが、彼女の中ではそう結びついた。

 二つ目の蔵は「酒蔵」と呼ばれており、今はフェアリーチェの仕事で使うものの倉庫として使っているようだ。彼女はその酒蔵にも入らせてもらうことにした。この酒蔵は元々酒を造っていた蔵だそうだ。かおりさん曰く「この蔵にはまだ酒の酵母が残っているんだって。将来的に酒蔵で大野の美味しいお酒を造れたらいいな」と。

 この酒蔵は建造176年目。様々な歴史の瞬間に立ち会ったという。飢饉に備えて稗を蓄えるために使用していたり、戦争の際に日本軍へ酒蔵においてあった大きな酒樽を寄付したり、川崎製鉄の物資が置かれていたり、今のフェアリーチェで扱っているシチリア産の塩などの保管所として使われていたりと…。この蔵は、大野の様々な出来事をこの長い年月でたくさん経験してきたということ。

また、酒蔵の謎もあるそうだ。なんでも、この蔵には座敷童が出るとか出ないとか…。それを聞いたときに彼女は「この蔵が176年もこのままの状態で残っているのはその座敷童がいたおかげなのかな」と思った。

彼女はこの蔵を見た瞬間に「この地域の歴史を沢山の人に知ってもらい、またこの地域が活気に満ち溢れている姿をこの目で見てみたい!」と思い、本格的に動き始めた。


2日目:祭り~神楽編~」

 彼女は、この地域の大きなお祭りの神楽の見学をさせてもらうことにした。祀られているのはここの元大地主が、明治維新後の「廃仏毀釈」が起きた際に神社にいた観音様を預かったというものである。祀る神様ではなく、観音様であるということがとても珍しいと彼女は感じた。というのも、彼女の地元の約300年続く八戸三社大祭は読んで字のごとく「3つの神社の神様を祀るお祭り」である。そしてそのお祭りでは豪華な大きい山車が八戸の中心街を華やかに通る。彼女にとって「お祭り=神様」という固定概念があったので新鮮だったようで、キラキラした目でその神楽を見ていた。しかし、その新鮮さの後に彼女はまたすぐにショックを受けることになる。

神楽を見た後彼女は大野の町を歩いたのだが、お祭りだというのに屋台があまり見られないのである。その状況は、この大野の町の寂しさをより一層詳しく伝えているようであった。


3日目:祭り~ナニャドヤラ大会編~」

そして翌日かおりさんと共に実際にお祭りを見学した。やはり、お祭り自体はとてもさみしいが、おおの駒踊りやナニャドヤラ音頭といった見ていても楽しいとわかるお祭りが行われていた。駒踊りというのは、煌びやかな馬の飾りを体にまとい、軽やかに青少年たちが舞っていた。それを見ていた彼女は「私もここで一緒に踊りたい!」と思うほど、惹かれていた。

ナニャドヤラ音頭は、彼女が見たものは太鼓を肩から腹のあたりまで下げ、それをたたいて演奏する人々と、普通の盆踊りのようにきれいな音楽が流れてゆったりと踊るものではなく、滑らかに手をヒラヒラと揺らしながら流れるように踊るというまた違った独特なリズムで行われており、最初は違和感をもっていたが、またそれも癖になり、この地域の祭りが始まってからずっと続けられてきた伝統であり、この初めて見る踊りから彼女は目が離せなくなっていた。そして、この不思議な踊りがこれからも続いて、いつかはもっとたくさんの人に見てもらいたいと彼女は思った。

その後、山車が出てきた。彼女は三社大祭のような大きな華やかな山車が出てくると思いわくわくした。しかし、出てきたのは、三社大祭の山車のような大規模の者ではなく、1周りも2周りも小さい山車であったが、小さいながらに華やかな装飾が施されていたり、山車が上に伸びてその山車の物語を見ただけでわかるくらいの表現の工夫が施されていたりした。そして、その山車には地域の子供たちが楽しそうに皆で息を合わせて太鼓をたたき、祭りの掛け声をかけていた。その掛け声は、彼女の夏休みの恒例行事の一つとして毎年楽しみにしていたものと似ており、彼女にとって幼いころを思い出させるような何か懐かしいものを感じさせ、三社大祭を彷彿とさせた。そして、その山車は、大野の中心街をゆっくりと通っていった。

そして、彼女が祭りを一通り見終えて帰ろうとした際に、ある小さな影に気が付いた。それは、2日前に訪れた蔵から出てきた猫だ。そこで彼女はまた一つ疑問を持ち、かおりさんに質問をした。

はな「そういえば、この地域にはたくさんの猫ちゃんたちがいるみたいですが、蔵と何か関係あるんですか?」

かおりさん「昔は飢饉に備えて稗とかを酒蔵に貯蔵していたんだよ。それで、その稗とかを食べにくるネズミを退治するために猫を昔から飼っていたんだよ。」

 彼女はその言葉に納得したが、それと同時に猫がネズミを食べるというのは何か不思議な感じだなと思った。


4日目:大野の歴史」

 彼女は祭りの翌日、ある場所に赴いた。それは、大野の歴史についてとても詳しい東大野さんがいる「大野図書館」だ。彼女は、東大野さんに大野がまだ南部八戸藩だったころの歴史について聞いた。

大野には侍がいなかった。その代わりに、八戸藩主にこの大野の自治を任された人がいて、その人が今の西大野商店のご先祖様の晴山吉三郎さんであった。この晴山吉三郎はいわゆるこの大野という地域の責任者のことである。しかし、責任者といっても誰でもなれるわけではなくて、その地域で一番経済力がありかつ農民からの信頼があって、八戸藩主からの信頼がある人でないとなれなかったそうだ。なぜなら、万が一年貢を農民が納めることができなかった場合、その自治を任された人がその農民の分を一緒に納めていたからでる。ただ、江戸時代の時は、この地域でだけ行われていたのではなく、どこの地域でも行われており、この時に名子制度が使われていた。名子制度というのは、年貢を納めることができなかった際に、晴山家に納めてもらい、その代わりに労働力で返していたという。ただしこれは、“奴隷”というものとは違ったものであり、大野の名子制度というのはほかの地域とは少し違うようだ。

大野の名産物としては、製鉄と大豆があげられるようだ。しかし、この名産物は、あくまで八戸藩に納めていたものであり、大野の人達の食生活については、粟や稗を食べていたようだ。なぜ、米ではなく粟や稗を食べていたのかというと、大野の地域は寒冷地で、稲作ができるような地域ではなかったのだ。その代わり、粟や稗はどんなにやせた土地でも生えてくるため、当時のこの地域の人たちの主食は、粟や稗だったようだ。ちなみに、“稗”という言葉は、“冷え”からきているといわれており、寒い地域でも作れるということからこの名前が付いたといわれているようだ。その他にも、そばや麦があり、“かっけ”や“はっとう”として食べられていたという。また、南部せんべいも食べられていたらしい。

 大豆は、味噌や醤油を作り、八戸藩の殿様に納めていたようだ。醬油は今でこそ普通に使われているが、昔は貴重品であったので高級品として取り扱われており、もしかしたら、あまり醤油を使う文化がなかったのではないかといわれている。そして、その味噌や醤油は、酒蔵で作られていたのではないかといわれている。

大野のもう一つの名産物として、製鉄があり、昔、大野の山では、鉄が含まれている岩がたくさん採れ、それを砕き、砂鉄にして溶かし、製鉄を作っていたようだ。たたら製鉄というやり方で行っていたようだ。そして、その鉄を溶かすための当時の燃料は木炭であり、今も木炭を作ることが盛んに行われており、昔の名残で今も残っているといわれている。

それから、この地域は農業に向いていない代わりに馬や牛を育てていたといわれており、その馬や牛たちを使い、木炭を運んだり、八戸の方に味噌などを届けていたといわれている。そのため、三社大祭や“ナニャドヤラ大会”の際に馬がいたり、八戸に馬の名前があったりするのである。

 彼女は東大野さんからいろいろな話を受けた後図書館の中を見て回り、東大野さんが言っていた、製鉄の資料やその当時の人たちの生活の記録が記されている書物を見ていた。その時ある記事が目についた。それは、藁で草履を作っていたという記事だ。米を作ることができないのに藁があるということを不思議に感じ、質問した。

はな「この記事に載っている藁はどうやって入手したものなのですか?粟や稗の実以外の部分を藁に見立てて使っていたのでしょうか?」

東大野さん「実はまだちゃんとしたことがわかってないんです。むがし()の大野では稲作が出来ないといったと思うけんど、その時に稲さ()乾かして藁でつぐった(作った)米俵さ()入ってたすけ。今はちゃんとした袋さ()入ってるでしょ?昔はそうはいがねえから(いかないから)ねえ…。おそらく、その使い終わった米俵さ()ほどいて藁に戻して使ってたんじゃないがと考えています。」

はな「そうなんですね。じゃあ、粟や稗の実以外の部分は捨てていたのですか?」

東大野さん「いいえ。粟や稗の実は人が、けてたすけ(食べてました)。実以外の部分は馬や牛の餌さ()なってたから、藁さ()なる部分ば()なかったといわれてます。」

 彼女は、八戸藩の歴史についてまた少し興味を持った。それと同時に、これまで知らなかったことに関してもっと貪欲になるのであった。


5日目:祭りと大野』

 図書館に話を聞きに行った翌日、彼女はかおりさんと一緒に大野に昔からある鳴雷(なるいかずち)神社へ向かった。その神社を見たとき彼女は、「大野という小さい町にこれだけ大きい神社があるのは昨日東大野さんから聞いたことと何か関係があるのかもしれない」と思い、期待しながら鳥居をくぐった。

 神社の中に入ったかおりさんとはなは、早速宮司さんの話を聞いた。

 神社に関することは、この鳴雷神社は今から約260年前の八戸藩の殿様が大野の地域の繁栄のために建てたといわれており、名前の通り「雷」の神様を祀っている神社であるということ。大野のナニャドヤラ大会は慶応2(1866)に始まりその時からずっと続いているようだ。そして、このナニャドヤラ大会で使われる太鼓とお神輿は文久2(1861)に作られたようだ。しかし、今のナニャドヤラ大会で使われているお神輿は、平成に入ってから新しく作り直されたものらしいので、江戸時代からずっと残っているのは太鼓だけらしい。そして、祭りというのは社会づくりであり、ご先祖様からのメッセージでもあるといっており、祭りを大切にするということは文化を大切にするということにつながると言っていた。

 また、昔は神様も仏様も同じく拝んでいたのだが、明治維新後に『廃仏毀釈』が行われ、その際に神社で拝んでいた仏様を川に捨てたりという出来事が起こったりもしたという。その際に行き場をなくした仏様を引き取ったのが晴山吉三郎さんだそうだ。この人が仏様を知らないふりして引き取らなかったらナニャドヤラ大会の時のお神楽がなかったのかもしれないと彼女は思った。

そして、このような小さい町にこの規模の大きい神社があるということは、大野が元々八戸藩の殿様からかなり信頼されていた土地であり、かなり栄えていたことを表しているとも言っていた。昨日の東大野さんの話も「かなり栄えていた」とまではいってはいなかったが、大野が八戸藩に対して製鉄や大豆を納めていたことにより、殿様からの信頼を得てこのような大きい神社を立ててもらうことができたのだろうと彼女は思った。

 次に宮司さんが話したのは大野についてだ。元は「大野弥五郎」という豪族がおり、この人が大野の地域を作ったといわれている。しかし、今はこの人の一族はいなくなったらしい。また、この地域には様々な有名人が訪れたこともあるようだ。八戸藩の殿様はもちろん、思想家の「高山彦九郎」も大野に訪れたらしく、本人の日記にもそのことについて書かれていた。その時の内容としては、大野にある蔵の近くの長屋に誰でも無料で稗飯を食べられる場所があったらしく、そこで食事をしたと書かれていた。そしてその場所はまだ残っているようで、彼女も話を聞いた後かおりさんに頼んでその場所を見せてもらうことにした。そこは、“すす”によって真っ黒くなっていたが、はじめ見たときはただ黒く塗っているだけだと思った。それくらいきれいに黒くなっていたのである。高山彦九郎が食べたものとしては“あずきばっとう”というものがあり、これは甘さが抑えられた小豆汁にうどんが入っているものでその当時で言うおもてなし料理だったらしい。だから、大野としてはこういった有名な人におもてなし料理を出したという事実が残っているので、一つの誇れる出来事だと宮司さんも言っていた。彼女自身自分の地域の郷土料理のようなものなのだが、食べた記憶がないため、いつかは食べてみたいと思っていたのである。

 そして、1823年に大野に八戸藩の殿様が来て鳴雷神社で俳句をうたう歌会のようなものが行われたこともあったようだ。そして宮司さん曰く2023年でその歌会がおこなわれてからちょうど200年になることから、その年に八戸藩の殿様の末裔の方を読んでまた歌会を行いたいとのことだ。それから、宮司さんのある一言に彼女はショックを受けた。それは、「八戸の人たちは八戸藩の殿様のことをもっと知ってほしい。」ということだ。彼女自身、殿様の存在は知ってはいたが、今も殿様の末裔がいること自体知らなかった。確かに言われてみれば、これまで彼女が八戸で生きてきた中で、殿様の話を聞くことはなかったのである。このことを聞いた彼女は「知らなかったから何もできなかった。しかし、知らなかったから“仕方ない”というのではなく、自分の周りの人間がこのことを何も言ってこなかったのはその人たちも“知らなかった”からであるので、今からでも遅くはないと思うからこの事実をどうにかして八戸に持ち帰り、今の八戸があるのは殿様が頑張ってくれたからであるので、今からでも殿様を大切にするということをやった方がいい」と思った。それと同時に、彼女は今後の八戸市の活性化に期待を寄せたのであった。

宮司さんからの大野の祭りと歴史についての話を聞いて事務所に戻った。その道中かおりさんは町にある電灯のことについて話してくれた。それは、18年前に建てられた「夢あかり」についてだ。この夢あかりは、東大と日大の教授とその学生たちが町おこしとして行ったものの一つらしく、昼間に見た彼女は「レトロな感じがして良い」と言ったのだが、かおりさんは「夜になると淡い光がついてお化けが出るような感じで少し怖い」と言っていたのだ。なんでも、この明かりをつけた理由は、京都のようなイメージにしたかったらしく、街の趣を良い風に残した結果このようにさみしい雰囲気になってしまったように感じられる。そして、町おこしは一時的に成功したらしい。しかし、その学生たちが企画したものがなくなってしまった後やはりすぐにさみしい状態になってしまったようである。

彼女はどうにかしてこの状況を変えたいと思い、これまでは避けていた彼女の大学の取材にも積極的に答えるようになり少しでも大野の状況とこの活動を知ってもらいたいという気持ちが芽生えたようで、これまでの彼女からは想像もできないくらい積極的に行動するようになったのである。そして、彼女はこれまでは自分のことを否定的にしかとらえることができなかったのだが、彼女が大野のいいところをいろいろな視点で見ることができるようになったことにより、自分の長所も自分で見つけることができるようになり、彼女本人が大きく成長できたのである。


「エピローグ」

 全ての過程を終えた彼女は大野を出た。その際に彼女が見た景色は初めて大野に来た時の寂しいものではなく、様々な可能性を秘めた小さな宝箱に見えたのであった。

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